ラスボスを倒すと、ラスボスの本拠地が勝手に崩壊する昔からの伝統的なパターンについて

ガンダムビルドファイターズを観終わったので思ったんだけれど、アレの場合はプラフスキー粒子の結晶を消失させてもバトルフィールドは時間制限で崩壊しなかったから微妙に違ったんだけれど、プラフスキー粒子が最後に形成した、ア・バオア・クー攻略で今までのライバルビルダーたちが協力する下りは、記事タイトルのパターンにちょっとだけかすっている。

キルラキルも最終話まで視聴。ラス前はインフレ状態のラスボスのパクロミに集団で例によって唐突な後付け設定を付加して訳のわけのわからなさを武器にして集団で突進するも変わらず、結局流子に元気玉を集中してもらってたまったエネルギーをぶつけるが、なんだか終盤でもまた後付けのされたような、さらなる力による突破も、敵に対してギリギリ善戦したものもはちょっとやはり厳しく、とはいってもテンポは早いので、すぐに解決策を見つけ敵に突進するのは、シリーズの尺の問題かもしれないが、結果流子の特殊設定、鮮血の勝利に終わる。

本能寺学園が宇宙から来た服の殲滅で崩壊してしまったのもちょっと違った意味で記事タイトルで回収していますが、その後、鬼龍院羅暁と流子との母娘対決は勝手にやってたりします。ま、ちょっと記事タイトルで一貫してまとめるには無理がありますがな。

ところで関係ないですが、キルラキル最終回でよかったのは、流子と鬼龍院羅暁との最終対決直前で、マコが、帰ってきたら流子とデートをしたい、というモチベーションが、これまでどおり、流子の決定的な目的(それだけじゃないが)を持って鬼龍院羅暁をたおすモチベーションにも影響を与え、さらに鮮血が「セーラー服とは卒業するものだ。これからは好きな服を着ろ」という。その後1期EDの80年代テイスト曲が流れ、先の鮮血の言葉どおりの、セーラー服から解放された(という願望の)スケバン刑事斉藤由貴版ED曲風に戻るのは嬉しかった。作品自体に不満はないわけではないが、思い出の琴線に触れる要素があるとどうしてもそれだけで肯定してしまいそうになる、たぶん、自分はそうでもないんだが、先のガンダムビルドファイターズにもそんな要素があるのだろう。


ちょっと脱線して最近の作品に語りすぎたが、記事タイトルのアニメで「ラスボスを倒すと、ラスボスの本拠地が勝手に崩壊する昔からの伝統的な共通パターン」。これはこれでかつての大昔からの少年マンガ、アニメ、特撮、ゲーム(にもあるのかな)のいわばお約束というか、よく考えると話はあまりまとまってないのに、このパターンで終わらせると終わったように見える(笑)。面倒くさいからいちいちタイトルあげないけれど、他にもたくさん具体例はあるはずだ。「ラピュタ」だってそうだよね。ただ今ではそう単純な脚本では通用しないから、多少展開をアレンジしてるように思うんだが、今ちょっとこのパターンっぽい作品が少なからずあるような気もしないでもない。

最後に、このパターンで個人的に有名だと思っているのは、劇場版「銀河鉄道999」だろうと思う。実に分かりやすい。教科書みたいな作品だ。基本的にメーテルとその母、プロメシュームとの確執が問題だったけれど、終盤まで急速に成長する鉄郎が最後に、全体が崩壊しつつある母そのものの惑星メーテルプロメシューム)に対抗したメーテルに協力し、プロメシュームに対抗し、惑星を破壊に導く。爆発から逃げる鉄郎とだったが、メーテルが階段からコケそうになるところで鉄郎が手を差し伸べ、「機械の身体なのにあったかいんだね」と話しかけ、メーテルの身体を引き上げる。個人的には一番好きなシーンである。しかも、金田伊功作画だったりする。

現在における、自称ヌルい(否定的ではない)アニメファンと、いわゆる面倒くさい古参アニオタ、そして伝統的なアニメマニアの個人的な位置付け(あくまで個人的見解)。

[個人事情語りパート]
ブログの方針を長年の各話感想からすでに降り、かといって全体状況を俯瞰する「定点観測」を徹底して継続するには作品をチェックしきれないのは自明のこと(仕事の忙しさもあるし)。だから、やむを得ないのだが自分が視聴できた作品(ネット配信メイン)、あまりチェック出来てないネットで伝え聞こえている反応、即効性のまとめサイト(あまり信用してないが)。等々を現状況でこなすしかない。

とういうのが個人的なアニメ視聴環境の現状である。パッケージに感じてはリアルタイム購入マラソンには何の興味もなく、旬が過ぎて全巻揃ってからレンタル視聴あるいはしばらくしてBOX化されてからよほど好きだったものであれば購入することもあろうが、基本的には旬のリアルタイムTV放映に無理に付き合うことは数少なく、ある程度作品をセーブして視聴することはあるのだが、それでも数は少ない。
TVアニメのイベント上映的劇場版ラッシュにもいいかげん食傷気味である。

だから最近は、そもそもアニメ限定の趣味ではなかったので、直近で言えば、原作の「極黒ブリュンヒルデ」(アニメ化きっかけで知った新参者だけど)だったり、まだ現在でも続いてる原作の「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」の続刊も楽しみだし、アニメでいえば今秋富野監督の「Gのレコンギスタ」が控えてるし、自分的には特にアニメに特化して拘ることもなく、ラノベ、マンガ等の専門を標榜するブロガー(笑)に与するするつもりはない。ただし、各ジャンルの専門性を今後継承していくためには、各ジャンルにこだわり続ける方々の活動の積み重ねが将来役に立つと思うのでぜひ頑張ってください。


[いわゆる面倒くさい古参アニオタについてのパート]
商売的にはまだ購買力があるので貢献してると思うが、自戒をこめて言うが、単にライトなファン(ここではヌルヲタとは呼ばない)にはもっと優しくしてもいいのではないかと思う。自力で勉強してきてそれを古参が認めることもかつてあったが、それはかつてのSFの冬の時代の二の舞だし、世間的にはアニメの認知度は多少上がったが、パッケージ販売、ネット有料配信、イベント上映等のマーケット事情はそれほど楽観的ではなく、たまに大ヒット作が出現しても一時的なものだろう。それらは意図通りだったり偶然に近いスタッフの実力発揮に実現されたものだとは思うが、例えば「キルラキル」は過去のアニメネタ(実写の「スケバン刑事」等)盛り込んで、サンプリング的に勢いで畳み込んで展開するやり方も、「今」だけで考えれば充分盛り上がる作品(イベントで積極的に盛り上がりたい層が無視できない数がいると思うので別に貶してるわけではないのだが、そんな状況もテーマやドラマ云々で古参が貶すのは悪いクセなのではないだろうか。例えそうは思っていてもあまり口に出さないことが賢明だろうと思う。これが若いファンの無知上の勇み足なら、出来ればやさしく諭してほしいものである。余談だが同時期の「ノブナガン」はアニメマンガ特撮ネタはあったにもかかわらず、それはちょっとしたスパイスであり、地味ながらも戦術戦略分かりやすい理屈のストーリーで魅せていることに今のところうまくいっている。


[伝統的なアニメマニアのパート]
極論を言えば、たぶん文句を言われることを承知の上で言うが、いわゆるかつての蔑称、自虐としての「おたく」から肯定的に捉えようとした某氏の「オタク」の提唱より、ある程度長い間定着しながらも、一部でオタクの定義の論争が続き、そのあいだに若い人にはアニメやオタクの歴史の基礎教養を充分に勉強出来る事が出来ず、(独自に興味を持った人は勉強しただろうが)さらに「オタク」をあり方として現状でリアルタイム視聴前提だったり、旬の話題についていけなくてはならなかったり、それは以前からあるコミュニケーションの楽しみと弊害の問題もはらみ、経済的、仕事の事情とも絡み、濃い高齢化した「オタク」の限界が見え始めている。だから、乱暴だが、かつて「オタク」は死んだとも言われたが、そろそろ「オタク」という呼称は定義どころかいいかげん終いなのではないかと思う。
そこで「伝統的なアニメ/アニメーション」の歴史、加えれば「オタク」の一時期の文化的意義等、年寄り、興味のある若い人による研究は必要であろう。別にアカデミックでもなくてもいい、草の根的に有志による継続した記録は必要だと思う。引退したアニメ業界関係者も是非協力してもらいたい。


[ライトなアニメファンのパート]
一言でいえば、専門的なことは知らなくてもいいから、何でも良いからアニメを盛り上げてください。そうすればしばらくは「アニメ」は続くでしょう。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140324-00000126-mycomj-ent
富野さんは「アニメーションに未来なんてねえよ!」(笑)と言いますが、それはスタッフ側の事情であったりするので致し方ない問題はありますが、それでも商業作品ですから作り続けられるでしょう。その成果がすぐに出るとは限りませんが、全くないとも限りませんので、無理にリアルタイム視聴に追いつこうとしなくてもよいのです。ネット配信や、レンタル等がありますので、旬の作品に煽られずにじっくり作品を吟味することも一つの楽しみです。旬の作品を追っかける人たちはその人たちに任せましょう(笑)。このご時世、「繋がり」の誘惑は強力ですが「孤高を恐れず」道を究めてから繋がることも有りなのです。

今後理想を言うならば、個人的には「オタク」は肩身が狭くなり(オタク癖が抜けない人はご愁傷さま。自分もそうだけど)、ファン(昔でいえば「ミーハー」)、マニアの区分に戻るんじゃないかと思っている。


あ、蛇足かもしれないが、すでにこじらせた「オタク」の人のケアも必要なんだろうなあ、とも思ってますよ。

最近の作品でよく言われる「手堅い作り」についての雑感

前記事の「モーパイ劇場版」元々ずばり、TV版に変わらず「手堅い」出来だったので、他のアニメ作品も含めていわゆる「手堅い出来」について何となく考えてみようと思っていた。

素人ながら、昨今オタク周辺であっても、景気はそんなに良くないことは皆さんよく知っていることで、商売する側も確実に回収しようとあの手この手を使い宣伝手法や関連グッズなどで引きつけるような展開があり、それらはちょっと前までは「作品」のテイストを無視したようなものがあった気がしたのだが、今だと、「作品」自体が視聴者(原作既読者)にきちんと向き合ってそれこそ視聴者の期待を裏切らず満足させようとする作りになってる物が多くなっているような気がする。とは言っても、そうやって綿密に作ったとしても、どうやっても当たり外れは出てきてしまうのがこの業界の厳しい所ではあるが、逆にそれゆえ、「ヒット」は狙わないが(あわよくば「ヒット」してほしいんだが)、無難とは言わないが、そこそこ「手堅い作り」で完成度を上げようとしているように見受けられる。

「モーパイ劇場版」も「手堅い」出来なのは間違いないが、今の観客に受けるのかどうかは微妙な所で、Twitter等では評判はよかったみたいだが、一般層に受けるかどうかは微妙だし、また一般層に受ける必要があるのかどうか、というのもある。商売的にはもちろんヒットした方がいいに決まっているが。

今思い付く所で言うと最近の水島努監督がある程度の落差はありつつ、総じて「手堅い」作品作りをしているように端からは見受けられる。今期で言えば「ウィッチクラフトワークス」だろう。
かつての「ケメコデラックス」のスタッフの狙いと視聴者の観たい物との大きな乖離をきっかけとして、視聴者を大事にした「手堅い」作りを模索して、そこで当たりを出したのが言わずと知れた「ガールズ&パンツァー」であったことはまず異論はないだろう。端正な「手堅い作り」でありながらも視聴者も巻き込んで盛り上がることが出来た理由については諸説あるだろうがここでは触れない。かつてクリエイターに自由に作らせた(おおらかだったのでそれができた)作家性の強い作品群がすべてではないがヒットした時代があったが、アニメ技術の分かりやすい進化を魅せる側面もあったから、リアルタイムでその流れを体験できた世代はその面白さを充分享受したから、執拗にクリエイター主導の作品を持ち上げたりして、今でもそんな尺度を今のアニメにはめて若い人の顰蹙を買ったりするのかもしれない。

もう昔の話になってしまっているが、テレビアニメ、つまりテレビ局自体に体力があった時代には4クールものが多く、1話単位では酷い出来があったにも関わらず長くシリーズを転がしていくと化ける場合が少なくないに比べ、今の1〜2クールではスタッフ(声優含む)がキャラをようやく掴んできたと思ったらすぐに終わってしまう。2期が前提であるわけでもないので例えば1クールないでそれなりの一応の決着をつけなければならなかったりする。劇場版や2期、3期が決まったとしても、最初の1期から間があいてぶつ切りになってしまうため、その都度ごとのイベント性が強くなり、連続4クールのような醍醐味はない。ただ、ニチアサキッズタイム等ではまだそんな醍醐味は残ってるのかもしれないが。

というわけで、主に深夜枠で長年試行錯誤を続けてきた結果、短い尺でもそれなりに「手堅い」作品をある程度は安定して作れるようになってきたのは時代の状況に良くも悪くも適応出来てきた成果なのだろうと思うわけだけれども、古参のアニメファンの自分にとっては手堅い「仕事」だ、というような評価をしてしまいがちだし、若いファンはじっくり一つの作品に思い入れが出来ない、という問題が相変わらず付きまとうのだが、そんな状況を変えるにはもはや至難の業になってしまったのだなあ、と思ったりする。

モーレツ宇宙海賊 ABYSS OF HYPERSPACE -亜空の深淵-

一見B級的なタイトルとは裏腹に、実はSFとしては堅実な作りであったTV版のテイストとほぼ変わってない。
それゆえ、TV版の時と同じくあまり万人むけではないのは仕方がないが、きちんとした「SFアニメ」は昨今貴重なのでこのような作品はあってもいいだろうし、それが劇場版まで作られたことは喜ばしいことではある。

今回の劇場版では賛否あろうが、ゲストの少年、無限彼方が主人公と言ってよく、加藤茉莉香以下TV版のキャラがそれなりに活躍するものの、基本的には「脇役」の位置に退いている。それはTV版のキャラクターはTV版で充分描かれたからかもしれない。また、TV版が好きな人には違和感を抱かせるような、あきまん氏のキャラ原案をより活かしたちょっと大人びたキャラデザは、無限彼方の目線からすれば、納得出来ないこともない。特に弁天丸船長の、すでに海賊業において貫禄のついた加藤茉莉香お姉さん(あおりで見せるカットが多かったし)と無限彼方少年との関係は、両者に共通した父親との関係の問題があるにせよ、自分の世代的には劇場版「銀河鉄道999」のキャプテンハーロックと少年、星野鉄郎との関係と勝手にダブらせて観ていたので、結構感慨深い。余談だが1979年の中学生の時にリアルタイムで観た劇場版「銀河鉄道999」、「ガンダム」双方のうち、「ガンダム」はよく分からずも背伸びして観ていたのに対し、「999」は素直に強く思い入れ出来ていた記憶があるのでなおさらである。

劇場版ゲストの無限彼方少年のドラマについては、親から与えられたモビル「スーツ」的な亜空間ダイブ用の人型「潜航艇」(でいいんだっけ?)に乗って、結局はお約束だが父の意志を継ぐという、実に伝統的なロボットものパターンだったりして、思わず吹いてしまったが、目新しい要素はなくともSFとして手堅く密度の濃い作りはTV版となんら変わりはなかった。


http://tokyo-anime-news.jp/?p=21115

50代近くなった人間のアニメとの付き合い方(40代後半からの〜改訂版)

これはあくまでもちろん個人的なことであり、一般論ではないのだが、前回に続き普通の日記として書く。
以前に日常生活とアニメに関して何度も書いていて繰り返しになる部分もあろうが、書く。いつもの散漫な長文では分かりにくいので、箇条書きで。思い付いた順。

  • 前回の記事で、アイマス劇場版での神戸守氏の絵コンテ確認のためだけに観に行ったことで考えたのだが、自分のアニメファンの経歴(70年代後半から現在に至る長期間)はもはや特殊な視聴者であることは間違いないので、新作TVアニメの若手スタッフにはあまり拘らない。そんな余裕はない。経験値がありすぎることから来るバイアスも無視できない。
  • アニメにおけるCGの進歩にも興味は多少あるのだが、ここは、個人的には比較的長く追いかけてきた、富野由悠季監督と神戸守監督/演出家の二人に絞ってチェックしていくことにした。両者とも、テイストはもちろん違うが昔からコンテワークが自分好みだからである。
  • 特に富野由悠季監督に関しては、最近ではハリウッドでのプロジェクトもまだ確定ではないが、それなりに動いているらしいし、

富野由悠季監督、ハリウッド「Legacy Effects」提携会見 - 全文書き起こし (1) 「第一作目は、全くの新作でやるというリスクを侵すわけにはいかない」 | マイナビニュース
国内ではコードネーム「Gレコ」と長年噂されていた、「ガンダム」カテゴリに位置する新作の「Gのレコンギスタ」が早ければ2014年に日の目を見るか、と言われているので、以下の富野情報にお詳しいサイトに任せますが、
TOMINOSUKI / 富野愛好病
もしかしたら今年は重要な年かもしれない。このブログの更新的にも。

  • リアルタイムのTVアニメに関しては、今更言うまでもないが、多量観に立脚点を置いた「表現」としてのレビューや感想ブログのポリシーを守ることは、自分の仕事や加齢、生活スタイルからいってもう出来ないので、はっきりと放棄した。さらに一時期一般視聴者の立場に立って感想を書こうとしたが、約30年前からのアニメファンの穿った見方はそうそう抜けきることはなく、もう諦めた。ただ、全く視聴しないわけではないが、実況ツイートは面倒くさい。何かあればシリーズ途中でもコメントするかもしれないが、TLの話題に乗っかるのも面倒くさい。昔は「風の噂」的にTLで流れてきた情報でゆったりと吟味で出来たりしたことがあった。前記事で、アイマス劇場版で絵コンテで神戸守氏の名が、と最近見かけたので、自分のTLの作り方の問題なのかもしれないが。
  • リアルタイム放映(配信)に付き合うのも一つの楽しみだが、そこは若い人に任せてシリーズが完結してからレンタルなりである種周回遅れで視聴しようと思う。リアルタイム視聴の場合、得てしてその瞬間だけ盛り上がって終わることが多く、ハマった人は長く愛する作品にはなろうが、大半の多量観感想屋は次のシーズンへとすぐ移行する傾向があるような気がする。主に1クール主流のサイクルの速さでは一つの作品をゆっくり吟味している暇もなく、それは何も視聴者の問題だけではなく、数多くのアニメ作品、どのくらい売れているのか分からないパッケージ販売マラソン、当たる気配が少しでもあれば出来るだけブームを引き延ばそうとする過剰なグッズ特典展開等々、言い換えればそんな情報戦に視聴者は疲れてしまって、すっかり習慣になってしまった毎期ごとのアニメの傾向を真面目であろうと不真面目であろうと見てしまうのも致し方ない。加えるならばニコニコでのコメント付き配信が、擬似的にみんなで観るたのしみだったはずなのだが、ただのノイズになってしまっている傾向も無視できないだろう。
  • と、定点観測的なこともつい書いてしまったが、あまりそういうことから離れて、個人的には、全般的な感想サイトからの脱却、富野由悠季監督と神戸守監督の追っかけ、それ以外のアニメ視聴は旬をずらしたレンタルでの視聴、旬であれば劇場でのアニメ視聴、くらいかな。特に劇場でわざわざ数時間拘束されに行くわけで、余計なノイズに比較的惑わされずに集中出来て頭をよく使うことが出来るのですよ。

劇場版「THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!」と「ノブナガン」

さて、どうでもいいような、好きなことしか書かないぞ(笑)。

アイマス劇場版は、TV版は全話観たものの、あまり思い入れがなかったのでスルーするつもりだったのだが、TwitterのTLで絵コンテに神戸守の名前がある、と見かけて、その確認のためだけに急遽観に行った。結果、予想通りというか、監督以下数名の中での共同コンテ参加。ただ、ライブやダンスシーン以外の日常シーンで神戸さんらしいと思われる箇所は何となく分かったのだが、当たってるかどうか定かではないので具体的に何ともいえない。それでも、例え神戸さん担当箇所でなくとも、カットのリズムと比較的淡泊で凜とした日常描写は自分好みで気持ちが良かった。コンテワークにのみに焦点を絞って観ていたので作画やお話等についてはノーコメント。目的が目的だし過剰な思い入れはないのでこの程度で充分。

wiki等には最近の記載は「マギ」のコンテとアイマス劇場版の共同コンテしかないが、
神戸守 - 演出@wiki - アットウィキ
聖☆おにいさん」でもA-1 Pictures絡みで関わっていたのね(チーフ演出)。伏線はあったわけだ。
神戸守 のプロフィール - allcinema
至好回路雑記帳: 劇場版聖☆おにいさん 感想

というわけで、最近の神戸守さんの活動が確認出来ただけでもよろしかった。


ノブナガン」は4話までのところ、危うい感じはあるものの、「テレビまんが」らしさ(監督コメント参照http://www.vap.co.jp/nobunagun/cast/index.html)をギリギリ保ちつつ何とか安定していてホッとしている。基本的にそこそこ面白いのだが、危うかったり安定したりと、好感を持ちながらやさしく見守る気にさせてくれる作品。
すんなりと思い入れが出来る一番の理由は、今の流行とは関係なく自分がマンガを描き続けていたら(偉人ネタは苦手なんだが)やりたいタイプの作品だからなんだろうな、と思っている。


以上、最近は上記の二つで密やかにホクホクしている。

2013年のアニメ(テレビ・劇場)主観的評価と客観的評価リスト

コメントは付けない。長くなるから(笑)。また、もちろん自分が観た範囲内のものでのみ。順不同。

テレビアニメ

[主観的評価]

[客観的評価]


劇場アニメ

[主観的評価]

[客観的評価]