「Gのレコンギスタ」に対する期待。また、アニメキャラクターの書き込みよりもリアルで緻密な背景について雑感。

注):例によって散漫に書く。また事実誤認と言われてもたいした証拠となるソースは提供出来ないのであしからず。


昨今、CGが手描きに取って代わる云々の議論よりも、手描きだろうとCGであろうと、まず主に、例えばファーストガンダムの時代では絵的な描写のディテールが未熟だったので、映像面に期待せずリアリティを出すようにコンテ演出に創意工夫を凝らして、特殊な技術による手法を生み出した。そういったものを一部のマニアの方々が声だかに評価したのだろうが、一方でそれに反対するマニア層も正確にどのくらいの割合で当時存在したのかは分からないが、そこは研究者に任せることにする(切りがないような気がするが)。

映像の原則 改訂版 (キネマ旬報ムック)

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歴史的な経緯から言うと、具体的には端折るけれども、初期のテレビアニメ(テレビまんが)では現場の予算、スケジュールの短さ、人材不足もあってかいわゆる動画枚数を少ないやり方でこなすのが主流となってしばらく続くが、初期「ヤマト」劇場版当時くらいからの、アニメを幼少時に卒業しなかったクリエイター志望の実力のあるファンにとって、彼らより過去に例えばメカのディテールに拘ったスタッフもいなかったわけではない(大塚康生、まあ強いて言えば宮崎駿)。が、当時の若いアニメファン、どちらかというと「おたく」というバイアスがかかった人々は、当時のバブル時期である程度むちゃをしていいような、キャラのファッションのこだわりやメカの過剰なディテール描写、設定に凝る傾向にあった。しかもその作業には快感が伴っていたはずだと推測する(例えば「マクロス」「メガゾーン23」あたりか)。


同じ1980年代ごろアニメーターがアニメ誌等におだてられて、あそばせられ、今から思えばほんの一時期ではあったのだが、爆発やエフェクトを描きたいと思っていた人間はやたら多かったことがあった。前後するが、金田伊功氏とそのフォロワーの影響が相当大きかったはずである。ただし、まだまだテレビアニメの玩具販促は至上目的であった時代で、また、後にOVA発売その宣伝の劇場イベント上映、コミック同梱のアニメOADとグッズ等と発展していっても「商売」の要素はけっして少なくなるわけではない。

アニメージュオリジナル Vol.5 (ロマンアルバム) (ムック)

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そして現在に戻るが、富野監督の新作「ガンダム Gのレコンギスタ」は過去の例えば「ブレン」「∀ガンダム」「キンゲ」に比べれば、意外にも玩具展開に精力的で有り(結果はどうなるかは分からないが)、今作に対する富野監督の発言は、あえて「子供向け」と縛りをつけるためなのか、自分を奮い立たせるためか、すでに70代の自分を鼓舞するためか、メディアに対しては、自分に対する挑発も含めた世間に対するアピールなのかもしれない。実際、HGシリーズ「Gのレコンギスタ」&「ガンダムビルドファイターズトライ」9月より続々ガンプラ発売決定! | GUNDAM.INFOといった玩具展開のプレゼンテーションがあるので、監督自身、勝手にやってくれ、というわけではもちろんないだろうから、それなりに積極的に協力しているのだろう。公式のメカ設定を見るに、個人的にはいかにも玩具然としていた方が、その独特の使い方を見せてくれる可能性があるかもしれないので楽しみである。そういった点からいえば個人的には、かつてのVガンダムのように放映前の建前的な「子供向け」よりとは違って、タイヤ戦艦をスポンサーを押しつけられることもなく、富野監督の精神状態は元気なのではないだろうか。監督ご本人はもはや高齢ですし、先のブレン、ターンエー、キンゲの流れからしてテーマ的にはそれほど変わらないんじゃないでしょうか。


次に最近本当にどの作品を見ても当たり前になってしまった、アニメキャラクターの書き込みよりもリアルで緻密な背景について雑感。

時事放談YouTubeで言われていたんですが、夏のテレビアニメ多すぎだ(テレビアニメに限らずだが)、視聴者側は若者、年寄りにもかかわらず、全番組困難、かといって供給側はビジネスチャンスを絶えず狙っているので視聴者の事情はあんまり考慮してないと。とすれば、もう申し訳ないが視聴者は無理のない視聴生活に徹するしかない。パッケージを買わなければ2期はない、と言われても経済的に余裕がなければ善意から、スタッフに援助しようとしても詮無きことである。

また、上記のパーソナリティの一人が、今までのロボットもののパターンは玩具メーカーありきに対応あるいは反発してきたものがずいぶん伝統化されてしまったので、玩具スポンサーを考慮しないロボットものがあり得るのか、いったんちゃんと検証した方がいいんじゃないのか、だったらやりがいがあるかも、と発言していたので、それは分かるけれど、難しいな、と思った。セレクターの場合は子供の頃親しんだカードゲームをやっていた人間が、大人になってカードも箱買い出来るようになったところで、ウィクロス等いったんカードゲームを卒業した人間をターゲットにした商品が出てきて、しかも、アニメ版は単なるカードバトルではなく、実際のウィクロスのゲームにそいつつ、本質は思春期の不穏なドラマでその両者が幸運にも上手くハマった。これってプロデューサーの目論みとしては、かつてのロボットアニメのファンの年齢層が上がって玩具よりもアニメのパッケージを買うようになったパターンを明確に踏襲したからなのだろうなあ、と思ったからだ。

そこで、よく言われる明らかに映像的なクオリティバブルである。
手描き作画的には、個人的には昔からのジブリ以降の宮崎アニメだったり押井守パトレイバー2あたりが悪く言えば諸悪の根源だったりするのだが、当時の自分からすればアニメの映像表現の進化に一喜一憂していたので今更否定できず、結局その進化はなるべくしてなってしまった、としか言えない。それだけが理由の一つではないだろうが、問題は普通のテレビアニメでもメカ、車などのCG そして特に緻密さが著しい背景画(CGでも手描きでも)が当たり前になって来ている。さらにデジタル制作が当たり前になった今、特に撮影が演出の重要な役割を担っているらしいとも聞く。
例を挙げるならば「残響のテロル」などを観てしまうと、シリアスな空気感、緊張感を客に納得させるにはあの劇場クラスのクオリティでなければならないのだろうか、と思う。ほとんどのアニメがそのような方向に突っ走っているような気がしてならない。

一方クオリティ問題でいえば、内容的にも映像的にも話題になった「シドニアの騎士」は3DCGオンリーであれだけの映像の安定さと面白さを提示したことは賞賛に価する。自分の印象としては、セルルックを目指すサンジゲンとは違い、漫画の描線を生かした感じが良かった。そのあたりが、制作のポリゴンピクチャーズの特色なのかもしれない。ガルパンもそうだが、3DCGだからといって単に優れているわけではない。要は優秀なスタッフと良好なスタッフワークによるものであるのだろう。

というわけで一応の結論は、昨今のクオリティバブルの中で、秋の富野監督の「G-レコ」がおそらく簡素な画面で有りながらカウンターとまではいかないが、アニメの面白さは映像の美しさだけではない、ということを示してくれたらと思う。