コクリコ坂から

公開から一週間ですか、「ゲド戦記」のときほど酷評されてないらしいので、個人的な感想を。
公開初日に観ました。アニオタ的には自分は年季が入り過ぎているので、どうコメントしてよいやら困ったんです。バイアスがかかりすぎて素直な感想が言えない。自分はただ黙っていて、アニメ経験値の低い(アニメにあまり詳しくない)人の素直な感想の方が価値があるんじゃないか、と思っていました。

濃い人間(アニメ経験値の高い人)からすれば宮崎アニメやジブリに関しては、すでに語られ過ぎているので、たとえば以下のような解釈というか、読みがしやすい作品でもあります。

asahi.com(朝日新聞社):父子相伝「コクリコ坂から」 - 小原篤のアニマゲ丼 - 映画・音楽・芸能
http://www.hollywood-ch.com/news/11072103.html?cut_page=1

ざっくり言えばジブリの状況そのものを描いている、という読みは同感で、そのための確認として自分もわざわざ劇場に行きましたから、納得できる部分もあります。

ただ、個人的に宮崎吾朗という人間に関して、インタビュー類の発言ではなくて作品から見えてくるものを改めて確認しに行った、というのが本当のところです。

ゲド戦記」の時に唯一気になったのは、「テルーの唄」をフルで聴かせるところです。しかもテルーが歌ってるシーンを延々流す(「ゲド戦記」自体、公開時に一度だけ観たっきりなので記憶違いがあるかもしれません)。あれを観たときに、要は「テルーの唄」という曲がいいので、それをそのまま心情描写の代わりに使おう、という悪く言えば素人くさいねじ伏せ方だな、と感じたわけです。そういうやり方は今までのジブリ作品にはなかったので、たぶん宮崎吾朗らしさなんだろうな、と漠然と思ってました。

そしてそれは今回の「コクリコ坂」でもあまり変わってないように思えます。「ゲド」の時に比べれば音楽の使い方は多少上手くなっている気がしますが、キャラクターの心情描写が淡白なので相対的に音楽の方が過剰に聞こえてしまったところがありました。つまり、音楽仰々しいよ、という。かといって音楽をセーブしたら観るに耐えうる映像になっていたかどうかわからない、というのも感じます。

「コクリコ坂」は団塊の世代が高校生当時の学生運動の話ですから、父親である宮崎駿とまさに団塊の世代にあたる鈴木敏夫、二人の思惑の方が大きいはずです。これがもし宮崎駿自身が監督していたら(今の宮崎駿がですが)どうなっていたか。たぶん、支離滅裂な怪作になっていただろうと思ったりもします(それはそれでまた話題になったかもしれませんが)。宮崎駿団塊の世代よりも上の世代ですが、東映動画時代に「運動」をもろに経験していますから、宮崎駿鈴木敏夫の二人にとっては当時の風潮を肌で知ってるわけです。つまり作品の内容からの距離が近すぎる。だからこの二人が前面に出て、このご時勢に「コクリコ坂」を作ったらどうなっていたか(当時の時代から距離が上手く取れない人間が作ったらどうなっていたか)。そういう想像をついしてしまいます。

監督が宮崎吾朗になったのはどういう経緯なのかはよくは知りませんが、結果的には正解だったと思います。意識せずに学生運動の時代から距離が取れる(というより分からない)わけですから。

「コクリコ坂」が好評なところがあるとしたら、ノスタルジーでもなく、ある種の「時代劇」としてでもなく、心情描写も薄い、ドラマも薄い、そういった側面が「たまたま」いい意味で脱臭効果として作用し、「ファンタジー」になった、ということかもしれません。

問題は監督に演出力があって、あえてそうしたのか、相変わらず力がないものの、今回は上手く回ったのか、それは明らかに根本的な大きな違いではあるんですが、そのへんは今回もよく分からないまま、でもやっぱり後者くさいな、とも漠然と思ったりするのです。