「古典」を「古典」として作ること。あるいは「古典として」しか作り得ないこと。(2001/12/02記)

神山健治監督の『009 RE:CYBORG』の公開も近いということで、10年ちょっと前、三度目のTVアニメ化(川越淳監督、紺野直幸キャラデザ)の際に書いた文章を再掲(一部加筆)。

サイボーグ009 2001年版
予定では今度のTVシリーズは1年かけてやるらしいので結論を出すのは早いのだが、とりあえず「覚え書き」として書いておこうと思う。

今度のアニメ化のテーマは他のページでも書いたが「原作どおり」に作る、ということである。
『009』は今までモノクロ、カラー(高橋良輔監督、サンライズ版)と二度TVアニメ化されているが原作の要素が活かされてはいるもののほぼアニメオリジナルだった。
それは一度目の時には「少年マンガ」というには原作があまりに「リアル」すぎたからだし(それゆえ「モノクロ」の時には007が子供のキャラに変更されている)、逆に二度目の時にはすでに原作の基本設定が「時代おくれ」だったからだ(原作の「神々との戦い」、北欧神話的な要素がベースになっていた記憶がある)。

そこへ来て三度目のアニメ化である。その背景事情はいろいろあるだろうがたぶん「石ノ森章太郎」リスペクト、という意味合いが一番大きいと思う。『キカイダーOVA、『仮面ライダークウガ』、『アギト』のヒット、(『ロボコン』もありましたな)という流れからも分かる。最近の「二世代向け」というのもあるかもしれない。原作ではとうとう未完で終わった「天使編」の完全映像化という「売り」もある。

だが背景事情はどうあれ、『009』を原作に忠実に作ることはいくつかの「危険」をはらんでいる。

『009』は基本的に設定としては米ソ冷戦構造下の物語である。「敵」が明確だった時代の物語なのだ。「死の商人」(ブラックゴースト)に望まれずに改造されてしまった者たちの悲劇の物語。いうなれば戦争被害者の物語だ。60年代これは圧倒的にリアリティがあった。当時『009』は「少年マンガ」にしては「ハード」で他の少年ものにくらべずっと「社会派」だったはずだ。それはまだ若かった石森(当時)が流行の先端に敏感だったからだ。

だが原作のブラックゴースト編の最終回(第一期最終回でもある)で00ナンバーサイボーグたちは自分たちの「敵」を倒すことが不可能であることを知る。今度のアニメが原作に忠実ならここからはネタバレになるので書かないが、「ブラックゴースト」がある意味文字通り「ゴースト」だったからだ。00ナンバーたちの「復讐」は貫徹できないのである。

この後原作はいったん終了したが、ファンの復活希望の声に答えて、再開される。だが、00ナンバーたちは「敵」を見失ったままだ。原作はここから石森の死にいたるまで迷走を続けることになる。「未来人」だの、「海底ピラミッド」だの、さまざまな「敵」が繰り出され、やがて最大の「敵」=「神」が現れる(「天使編」)。

原作に「忠実」に作るということは、この原作の持つ本質的な問題をも引きずってしまうということなのだ。
もう一つは時代設定の問題。原作のエピソードはあまりに長期に渡って描かれたためにそれらを統一した「物語」とするのが困難なのである。
今度のアニメでは001から004までは一時凍結されていた、というような多少の設定の変更でその問題をクリアしようとしているふしがあるがちょっと苦しいと思わざるを得ない。

それでも、あえて原作に忠実に作ることの「意味」を見つけてみようとすれば何があるだろう。

一つ気になったのは0013のエピソードで日本が舞台になるが、アニメでは時代設定が(というよりイメージ的に)「平成」の日本と「昭和」の日本が「混在」していることだ。

これは今の10代〜20代前半にはどう見えるのだろう。

以前、NHK村上龍の番組で、上記の世代に70年代以前の日本の記録フィルムを見せたとき、その中の「風景」が「日本」だとは思えない、という感想が多かった、というものがあった。

どこか別の国の「風景」にしか見えない。70年代以前は彼らにとって「異世界」なのかもしれない。

さらにもう一つ。
アニメ『攻殻機動隊』直後の押井守の幻の企画に押井版『鉄人28号』というのがあった。そのねらいは原作の時代背景である「昭和30年代」をリアルに描く、というものだった。ラストシーンは時代の遺物である「鉄人」が(「鉄人」は原作では戦争末期の「決戦兵器」として造られた)「東京オリンピック」開会式の上空を飛ぶ、というものだったらしい。
残念ながらこの企画は実現しなかったが、リアルな「昭和30年代」の描写というコンセプトは『人狼』に活かされることになった。

「古典」を「古典」として作る「意味」。
若い世代が知らない過去の「風景」を「異世界」として描きだすこと。
今回の「009」のスタッフがどこまで考えているかはわからないが、意味があるとしたらその点だと思っている。

さすがにこの文章の趣旨は今となっては旬ではないが(「昭和30年代の『鉄人28号』」は今川泰宏監督によって実現しているし)、009原作の、「敵を見失っている」問題は、今度の映画の予告編を見る限りでは今流行の「正義を成すことの是非」とも繋がるのかなとも思う。

いずれにせよ、『009 RE:CYBORG』は009の新作というより、神山監督の新作として観るつもりです。