携帯○○

前回も書きましたが、最近は携帯の動向にちょっと興味があって、そんな折、元アニメ仮面こと里見哲朗氏のブログのコメント欄で気になる発言がありました。
CCCPならソ連の略だけど。 | BARNUM STUDIO

携帯という略称はいみじくも本質を突いているのかもしれません。実際iPhoneで里見が一番使わない機能は電話ですからね。知り合いが「お財布携帯」と漢字で書くと当たり前のことだったと言ってましたが、「サイフや切符や電話やPCやTVやカメラや音楽やゲームやなんやかんやをまとめて携帯する新しいガジェット」を意味するのであれば、あながちまちがっていないかもしれないですよ。むしろ先見の明があるのかも。

また、
http://www.nhk.or.jp/netstar/movies_hanseikai_06.html
の後半で、日本ではネットゲームより携帯ゲーム機、将来的にはキーボードとモニターはあまり変わらないが、PC本体はどんどん小型化するかも(小型化したコンピュータ本体を持ち歩いて(携帯して)、Bluetooth等でキーボードとモニターがある場所で接続)、なんて話もしている。それが日本だけなのか世界的にそうなるのか、まだわからないところですが。



東のエデン」は様々なテーマが盛り込みすぎなところがあって、それぞれ個別に突っ込んでいけばいくらでも深く掘り下げられるとは思うんですが、ざっくり視聴者と地続きの日常の抱える問題を盛り込んだ物語を見せるという意味では(薄っぺらいニュースメディア的な印象はありますが)まあまあ良かったとは思います。1クールのTVシリーズという尺、あとは劇場版でどこまで補完とテーマの掘り下げができるかですが。まあ、TVシリーズはまだあと1話、最終回が残ってますけど、そんなところでしょう。

ただ個人的には「エデン」はやっぱり携帯電話、携帯ガジェットをキーアイテムにしたところと、その見せ方が興味深かったですね。言ってしまえば「エデン」についてはそこだけです。
例えば「電脳コイル」も「電脳メガネ」という携帯ガジェットを扱ったアニメだったわけですが、あれはどちらかというと、そういう設定を使った映像的な面白さを狙ったところがあって、映像表現としては面白いけれども、あの世界は「視聴者と地続きの日常」ではなくて、電脳ガジェットを使って今風にした妖怪ものに近い。コイルの小説版も、電脳メガネが子供にしか使えないようになっているという、アニメとは違った設定によって、子供と大人との葛藤をえんえんやっている。つまり「子供」とは何かという、本来の意味でのジュブナイルをやっている。

それに比べれば、「エデン」は登場する携帯のモデルが実際のものとほぼ同じで、少なくとも携帯に関しては、「視聴者と地続きの日常」がそこにある。だから入りやすいところはあったと思います。本当はその上で展開されるドラマというのが大事だとは思うんですが、最終回前まで来ても、そこまでは行ってないって感じですね。

さらに乱暴な比較をすれば、例えば「けいおん!」のキャラの使ってる楽器やらヘッドホンやらが異常なまでに注目されるのと、そう変わらないんじゃないか。

つまり、「視聴者と地続きの日常」、ちょっとファンタジーよりの「日常」があって、そこを前提として発展していくのではなく、「視聴者と地続きの、ちょっとファンタジー化された日常」が提示されているだけ、という気がするのですが、少々先走りすぎでしょうか。