「風立ちぬ」

公開二日目に観て、すでに多くの感想、論評が上がっていたので、黙っていようか、とも思ったが、ごく個人的な感想を書き留めておこう。

とりあえず鑑賞直後には上記のようなツイートをした。実際、過去の宮崎アニメ、宮崎駿が参加した作品を数多く観ているし、たぶん「紅の豚」の頃までの本人のインタビュー類はかなりの数を読んでいて、富野由悠季に続き、憧れていた人だったのは間違いない。だから今回の作品を観ていて、明らかに宮崎本人の人生とダブらしている部分が大きく、前作の「ポニョ」よりも、思うところ、感じるところがかなりあった。

というわけで、先のツイートでは字数制限で書き切れず多少客観的なコメントをしたのだが、ちょっと補足をする。

確か、おかだえみこさんだったか、「紅の豚」での大量の飛行機が天に昇っていく夢?だったかのシーンがあって、そこに初めて「死の臭い」を感じたと仰られていて、自分も同感だったのだが、今作においてはその要素は堂々とてんこ盛りで宮崎の年齢を考えれば当然でもある。「夢、妄想、あの世、現実等の境がますます曖昧」と書いたが、むしろろくなスケッチもせず驚くべき記憶力によって絵に再現する能力に長けているので、若いうちはいいのだが、老人の領域に入ってくるとそんな記憶も混濁してきて、本人は「決まり切ったテンプレ展開は飽きた。いまはそんな時代じゃない」云々と建前を述べたりしてるが、まだよくは分からないのだが、あの人の中では(全体の構成を決めずに行き当たりばったりでコンテ切ってることもあってか)、混濁した記憶と妄想と主張はあの人なりに何らかの一貫性があるような気がする。しかも実在の人物を主人公にして、比較的リアルな時代背景で、そういうスタイルで描くのである。というより、もうそのやり方でしか出来ないんじゃないかとも思う。

今回、やたらキスシーンが多かったり、初夜のシーンもあって、老人のエロスとも言われているが、ラピュタ当時に聴きに行った某大学の講演会である18禁アニメの批判をしてたりして、それは近親憎悪だろう、本当はやりたいんだろう、と思ったし、漫画のナウシカで服を着てると巨乳なのに、いざ裸を描こうとすると胸を大きく描けなかった、と発言してたりしてたことから思えば、老人になったからと言って、急に色気づいたりするわけでもなく、結局プラトニックレベルの描写だったし、逆に言えば美化された思い出のように思えてならない。商業作品としてはそれでもいいが、とても「パンツを脱いでいる」ようには思えない。結局セックスシーンとか描けないんだよね。いや今の宮崎駿の地位と全国ロードショーでそれは出来ないかもしれないけれど。

映像的には、「何でもかんでも映像で描写」、出来なければあっさりセリフで補完。セル風の作画描線は、個人的には「千と千尋の神隠し」から顕著な、なんというかぶよぶよした脂っこい線で、「ポニョ」を経て、飛行機でさえも一部を除きセル風手描きだし、おまけに人の声のSEのせいで命を持つ生物兵器の様にしか見えない。つまり人も機関車もそうだが、同じ描線なのでどれも不定形生物なのではないか、という気持ち悪ささえ感じた。過去の宮崎駿の描線が好きだっただけに余計そう思った。「メカニック感」がないのである。「マンガ映画」的な描線が手癖で残ってるのかもしれない。アニメーションの本質は「アニマ」だからそうなったのか。一方、視聴者側の自分も昨今のアニメのメカのCGに毒されているから(ガルパン等)そう感じるのか。また余談だが、冒頭幼少期の主人公の夢のシーンで目を大きく見開くところがあったが、一瞬、戦中の「桃太郎海の神兵」にも似たような描き方があったような気がしたが、自分の記憶違いか、それとも当たっていて宮崎駿自身アニメの歴史上ちゃんと意識してるのか、と思ったが定かではない。

今作はクリエイターに特に評判が良かったと聞くが、自分の晩年を想像して戦慄を覚えなかったのだろうか。「宮崎駿」は特別だからと何も感じなかったのか。
自分は若いころから創作を志して、早々に才能と技術の限界を感じて止めてしまったが、かつて憧れながら宮崎駿に勝つにはどうしたらいいのかと若い頃さんざん考えたそのひとの、天才的な才能をもっていた人の晩年のみっともなさを観ている最中感じすぎてしまって、才能の違い、創作をするしない、は別として、自分が老人になったときどう振る舞えば良いのか、戦慄を覚えたし、辛い映画であった。