改めて「東京マグニチュード8.0」

放映中、途中までは感想を書いてはいます。
2009-09-14 - トボフアンカル・ミニ・メディア(T:M:M)

東京マグニチュード8.0

当初結構ナメて観てたのが終盤で意外な展開に。災害物で、救助隊ではなく子供の姉弟が主役で、シリーズの冒頭で姉の方がなんか日常あるいは両親?に不満そうな描写があったので、これは普通に考えれば、彼女を大地震という非日常に放りこんで、彼女の成長物語になるんだろうと。そのためには弟か、あるいは地震後に出会い、二人の親代わりになる真理さん、そのどちらかが死ぬだろう、と。で、結局、弟の方が死んだことが明らかになったわけですが、死んだことが明らかになるまでの持ってき方が、なんだか真綿で首をしめるような感じで気持ち悪かったですね。表現がほとんどホラー的だし。それほど、姉の方はショックだった、ということなんでしょうけど、つまり、成長物語方向ではなくて、災害時の精神面での影響、PTSD云々、心のケアがどうだとか、そういう方向に持ってくんでしょうかね。

今回、マグニチュード8.0どころか、9レベルまで行った、東北の震災が起こったことで改めてちょっと評価が変わったので、少し書きます。

ポイントは最終回の展開だけなので、わざわざ全話観直すこともないな、と思って、いくつかの感想等を確認しました。

さくらもちモチ: 感想@「東京マグニチュード8.0」第11話(最終回):悠貴へ… *ネタバレあり: So-netブログ
東京マグニチュード8.0 第11話(最終回)「悠貴へ・・・」 | ◆◇黒衣の貴婦人の徒然日記◇◆ - 楽天ブログ
いよいよ最終回!『東京マグニチュード8.0』が描いたリアル(後編)|日刊サイゾー

上記の感想等にもあるように、当初はリアルな震災ものというふれこみでしたが、後半では被害者の心理面の方に比重が移ります。

これは当時、最終回後、スカイプで知人に話したことでもあるんですが、リアルな震災ものとしてはあまりに突っ込みどころが多く、そのため被災者の心情面にシフトしたのは分からなくもありません。ここで一つのラストとして、それでもあくまでリアルな震災もので行くなら、阪神淡路大震災以降の作品なのだから、物理的なカタストロフよりは、上記の自分の感想でも書いたように、主人公の少女が病院でカウンセリング等で心のケアを受けている、ような描写で終わるのも有りだったんじゃないか。

ところが実際のアニメの展開では、すでに死んでいた弟が霊的存在として姉の少女を見守るという、ファンタジーというよりは、スピリチュアルな方向にいく。

個人的にはあまり好きなやり方ではないんですが、それでもまだ分からなくもない。しかし、完全に違和感を持ったのは、最後にいたってさえ、少女が、「弟が見守っていてくれているから生きていける」と終わるところです。完全に「千の風になって」を地で行くようなスピリチュアルな方向で終わるわけです。これでは少なくとも少女の成長ものになっていないのは明らか。

「もう十分助けられた。だからあなた(弟)はもういいんだよ。あなたがいなくても私は平気だから」と、本当は弟の死を完全には受け入れられてはいないが、少女が無理にでもそう決意する、というのが個人的に観たかったラストでした。それはリアルではないのかもしれないが、リアルをスピリチュアルではなくファンタジーへ繋げて乗り越えるとはそういうことではないのか、と思ってしまうのです。


しかし、今年の東北の震災を経た今、圧倒的な物理的なカタストロフが個々人の心情をいとも簡単に粉砕してしまうのを見てしまうと、安易なスピリチュアルな癒しや、ファンタジーを援用した成長物語レベルではとても納得出来なくなってしまいました。

仙台・若林57%浸水 津波、内陸に最大4キロ(河北新報)宮城県の浸水面積は326平方キロに 浸水状況図発表 赤かぶ

遺体を発見し、確認する長く辛いプロセスは、多くの人にとって終わることのない作業かもしれない。大地震の後、がれきが撤去されれば、遺体の発見が容易になるケースもあるが、津波によって遺体は遠く広範囲まで運ばれる。永遠に戻って来ない遺体もある。今回の津波では、自宅から離れた場所で何トンもの土砂に埋もれている遺体もあるとみられ、生き残った家族が見つけるのは不可能な可能性がある。

こういった圧倒的な現実の前ではもうお手上げで途方にくれるしかありません。
震災から半年経っても遺体が見つからず、とりあえず死んだことにして葬式をしたとしても、遺族は納得出来ないはずです。本来葬式の役割というのは、生者が死者が亡くなったことを納得するための儀式ですが、こういった異常事態ではとうていそんな意味は持ちようがありません。

たとえば復興を急ぐために、遺体がまだ埋まってるかもしれない土砂をならしてその上にコンクリを敷く、といったようなことがあったとして、それが仕方がないこととはいえ、感情レベルでは整理がつくはずがありません。

だから現時点では、理性では否定したいのだけれど、心情(感情)レベルでは、スピリチュアル方向に行ってしまうことは避けられないのかもしれない、という結論になってしまうのです。