震災以後の「物語」のあり方についての個人的な雑感

(注:自分の創作関係については、別サイトがあるわけですが、そこは創作そのものを掲載するサイトなので、今回は雑感レベルでこちらで)



震災以後ということもあって、思うところはこの二ヶ月かなり多い。

アニメについてはほんとに気晴らし程度で(「戦国乙女」とかねw)、アニメから得るものは今のところほとんどない。

最近は福島原発のチェックの方が、現状があまりに不条理すぎてあきれると同時に、気が滅入って仕方がない(ニコ生の東電会見とか時間があればチェックするようにしてるんだけど、茶番すぎてあきれる)。

震災以後、思うところがかなり多い、といってもどう纏めたらいいか、正直お手上げに近い。

高濃度の放射能の影響が10年、20年後に仮に来るとして、「物語」は所詮無力だろうから、物書きの無力感を感じる(たとえ自分が被曝、特に内部被曝の場合、20年後は自分は60代なので、まあその年代ならあきらめもつくか、とも思うけど)。

気休め的な「物語」はこれからいくらでも作られるだろう。商売上の理由もあるだろうし、一時的に安心したい人もいるだろう。毎日大きな地震に身構えたり、これから長期に渡る原発処理のことを気にしてたら精神が持たないだろうから、それはあっていいことだろう。

そのことについては個人的に誰も責めない。

震災前から、ずっと、こだわってきたのは、「物語」と「メディア」の関係で、「物語」を上手く読者や視聴者に正確でなくとも、ある程度、強く伝わるにはどういう良好な関係の場合なのだろうか、とある時期から意識して考えるようになった。

もちろん、アニメという「メディア」の場合も同じことが言えるかもしれない、他メディアも同じだろう。


これから、震災以後の「非日常」(そもそも超長い100〜1000年のスパンを考えれば「日常」の定義もさまざまあるわけで)の状況をとりこんだ「物語」を今すぐ書くことはまず不可能だろう。不条理な「現実」があっという間に書いた瞬間から追い越してくるだろうからだ。

だとするならば、100年、いや、少なくとも、50年、えーと、10年(?)、くらいは通用するような、普遍的な「物語」を書くしかない。えーと、自分がそれが出来るかどうかは関係なく、誰か書いて欲しいという願いはある。

もちろん、自分でも普遍的な「物語」に挑戦したいけれど、いい意味で気休め的な「物語」も並行で書いて行こうと思う。

ま、未熟な物書きなりに。