第43話『瞳に映る輝き』(最終話)

■神戸演出その2(その1は1話)


何と言っても特筆すべきは、星のトレインがコメ
ットさんを乗せて出発するシーン。ネコ車掌が顔
を伏せ、汽笛が鳴り、蒸気の音のテンポにシンク
ロするかのように切り替わっていく(「思い出の
場所」を示す)背景画のカット繋ぎでしょう。
最後の鐘の音のかぶさり具合といい、音楽の各パ
ートの繋がりにも似た相乗効果が実に素晴らしい
です。神戸演出的に見ても、その特徴である、
カメラ固定+レイアウト重視+モンタージュ的な
カット繋がりを充分に生かしていて、今回の43話
の演出で神戸さんらしさはどこなのかと問われれ
ば、真っ先にこのシーンを挙げるべきであるとい
う、それほどのシーンだと思います。


■「『コメットさ〜ん』、『は〜い』」の世界の必然
 そして総論


いままで見てきたように、『コメットさん☆』と
いう作品のポイントは以下の3つに絞れます。


・子供(3〜4才)に「大丈夫」と言える世界
・「親」の「立場」
・「輝き」の循環


前回で、
みんなの「輝き」を応援するのがコメットさんな
ら、地球と星国どちらを取るのか。そしてなによ
りコメットさん自身の「輝き」はどうなるのか、
と書きましたが、作り手のレベルで言うと、作品
の基本コンセプトはツヨシくんネネちゃんのもと
に不思議なお姉さんがやってくる、というものの
はずですから、作劇上どうあろうともコメットさ
んは必ずこの二人のもとに帰ってくることになり
ます。


「コメットさ〜ん」と呼びかけると、
必ず「は〜い」と返ってくる。


それがすべてを表しています。
この作品は劇中では「成長」という言葉が出てく
るものの、実際には「成長もの」の要素が少ない
のは、それは子供にまず「大丈夫」と言う脚本の
おけや氏の狙いの影響があるような気がします。

「大丈夫」というための作品だから、ツヨシくん
ネネちゃんのもとに、コメットさんは帰ってくる
のです。そして、ということはツヨシくんネネち
ゃんの「成長もの」ではないわけです。唯一「成
長」したと思えるのはプラネット王子くらいで、
他のキャラも、あるエピソードで「成長」したよ
うに見えても次の回で元に戻っていたりと、「大
丈夫」を保証するかのような「変わらなさ」があ
るように思えます。

いったんはコメットさんが地球に残ることを否定
した「星の子たち」も、コメットさんの「輝き」
を応援する、という形で彼女の地球行きを肯定し
ます。誰かを応援すること、そしてその誰かから
応援を受けること。「『輝き』の循環」テーマで
そこは処理されています。

この作品では、「『輝き』の循環」テーマは
「『親』の『立場』」のテーマとしても描かれま
した。言い方が違うだけで、この2つの本質は同
じです。たまたまコメットさんがツヨシくんネネ
ちゃんの親代わりをすることになったから「親」
という言葉が出てきただけで(主に3〜4才のドラ
マで)、それは同年代どうしでも「親」になった
り「子」になったりします。

つまり「親」の「立場」になって、同年代の他人
の「輝き」の応援をするということです。そして
別の時には「子」の「立場」になって誰か「親」
になった人からの「応援」を受ける。12〜3才
(あるいはそれ以上の年齢のキャラの場合の)ド
ラマとはそういう関係でした。

惜しむらくは中盤で「恋力」が登場したときに、
「恋」という「輝き」とは何なのかあまり掘り下
げがされなかったことでしょう。それはみんなの
「輝き」を応援する存在としてのコメットさんが、
「恋」を執拗に避けていたことに表されています。

終盤の展開を見てもわかるように、「恋」の問題
に踏み込むと、けっして「大丈夫」とは言いがた
いものになってしまうからなのかもしれません。
この作品に続編があるとすれば、テーマ的に考え
て次は「恋」が前面に出てくるような作品になら
ざるを得ないと思うのですが、果してそれは『コ
メットさん☆』と呼べるのかという疑問もありま
す。

今回最終回のラストで地球に戻ったコメットさん
が、すぐにツヨシくんネネちゃんのもとに戻らず
ケースケの方に行ったということも(スタッフ的
にはたんに、本物のケースケを最後に登場させる
にはそういう構成しかなかったということかもし
れませんが)、最後にコメットさんは自分の「恋
心」に正直になったと読みとれそうですが、それ
もまた「恋」ではなくて「ただ応援したかっただ
け」と、ススッと逃げて行かれそうな気がします。

そしてそれこそが『コメットさん☆』という作品
らしさとも言えそうなのです。(2002/11/30記)

補足その1 mixiコメットさん☆」コミュ作品紹介より
http://mixi.jp/view_community.pl?id=12098

神戸監督による演出も素晴らしいのだが、最近観直して、純粋に神戸作品とは言えないような気がしてきた。

つまり、「コメットさん」という、現在ではとても成立しないような原作(実写版)をベースに、まったりとしながら独特の味がある、おけやあきら脚本、子供向けでありながら「萌え」を喚起させるある意味正当な、まきだかずあき氏のキャラデザイン(しかもご本人はもともとリアル系作画の人であり、それが神戸実写風演出と実にマッチしている)。

その他、神戸演出を多少マイルドにし、数々の名シーンを生んだ佐士原武之氏、神戸氏よりは対極にあるハイテンション演出の中村憲由氏。そして音楽の小西香葉、近藤由起夫コンビ。なにより忘れてならないのが、コメット役CVの前田亜季、メテオ役CVの本多知恵子。その他、素晴らしいスタッフたちが集合し、今では考えられないほど余裕をもったスケジュールで制作されたという、奇跡的に成立した作品である。

最近の神戸作品を観たり、発言などを知るにつれ、「コメットさん☆」は監督の趣味からは外れるようで、その意味ではディレクションに徹した作品なのだろう。それはけっして否定的なことを言っているわけではなくて、すばらしいディレクションだったと言いたいのである。

ひとことでいえば、「コメットさん☆」は神戸作品ではなく、「コメットさん☆」は「コメットさん☆」でしかないのではないかと思うのである。(2005/01/10)

補足その2(参考) 神戸守の作家性を妄想する
http://kanaejun.net/entries/20051106_0904.html


はあ、これでこれもアーカイブ化が終わった。
本来なら、ここではてなダイアリーを最後に、はてな関係から手を引く予定でしたが、「ブレン」の感想を始めてしまったので、しばらく続きます。