第30話『星力で粘土あそび』

前回書いた「断片描写」という点では、今回それ
に当たるのが、星力で命を与えられた粘土の怪獣
(?)が壁に自らぶつかって造り主の源ちゃんの
意に沿うように姿を変えようとするシーンです。

ここはいわば典型的な、自己犠牲による「泣かせ」
のシーンに見えるわけですが、「断片」としてあ
るだけで、ドラマにはなっていません。もしその
「断片」、「パーツ」だけで泣けるとすれば、そ
れは観客が過去に観た様々な「泣かせ」のドラマ
の「記憶」から補完して観ているからです。

だから、「パーツ」だけを提示しても泣けるので
す。実際、それはほとんど今では「手法」として
はあたりまえになってきていて、たとえば実に典
型的なのは「拾った子犬(あるいは猫)を飼うこ
とが許されず、捨てなければならない」などのパ
ターンです。これを今どきそのままドラマの中心
に持ってくるのはさすがに陳腐に見えます。です
が、条件反射的に泣ける、という意味では非常に
有効なので、「泣かせ」の「パーツ」として使う
「手法」となった気がします。「スパイス」的な
使い方です。
他のアニメで一番最近の例だと『あずまんが大王
21話(沖縄編)の榊さんとイリオモテヤマネコ
関係がそうです。

ですが『コメットさん☆』の今回のエピソードの
場合、粘土怪獣の自己犠牲シーンが明確に「泣か
せ」になっているかというと、かなり微妙で、形
が崩れた自分の粘土を見て源ちゃんは「これが自
分が作りたかった犬や」というような言い方をし
ますし、そこでツヨシくん、ネネちゃんが「なん
でやねん」と突っ込んだり、良く分からない、冗
談のような落とし方をします。「泣かせ」なら源
ちゃんが悲しくなるとか、「パーツ」であっても
そういうシークエンスがあるはずなのです。

犬に見えないものを「犬」と言い張ったり、「な
んでやねん」という「語感」そのものにこだわる
というところは実にリアルな「子供らしさ」と取
ることも出来ます。おそらく例によって「子供ら
しさ」、「子供ってそういうことよくするよね」
といった部分を脚本に取り込んだ、と見たほうが
いいようです。だとすると、源ちゃんと粘土怪獣
のあいだには「泣かせ」は成立していません。

途中で挟み込まれる、身ごもったスピカおばさま
のシーンや、コメットさんの行動を観察するムー
クとメテオさんの会話からわかるように、コメッ
トさんの「輝き磨き」が今回のドラマの中心です。
「輝き磨き」というと曖昧な表現なので(コメッ
トさん自身にとっての「輝き磨き」とは何なのか
ということは次回で書きます)「親」修行と言っ
た方がいいような気がします。もともと粘土に
「命」を与えたのはコメットさんですし、自らの
行為によって引き起こされた事態からいろいろ学
ぶ(すぐに忘れますが)、というのが今回の話の
骨子です。

だから、粘土怪獣の、造り主である源ちゃんのと
ころにただ会いに行ったり、源ちゃんの望むとお
りの姿になろうとしたりといった見返りを要求し
ない純粋な行為は、コメットさんと粘土怪獣との
あいだの、軽々しく「命」を扱ったり、「命」を
与えてはいけないというドラマ展開に繋がります。
ドラマの主軸はコメットさんが「親」としてどう
あるべきかというところにあるので粘土怪獣の行
為自体ははやり断片的なものであり、さらに「パ
ーツ」的にも「泣かせ」と判断するには微妙だと
いう気がします。

個人的にはそのことよりも、スタッフの「3〜4
才」にはひたすら甘い、という姿勢がどうしても
気になります。つまり「親」の「立場」からの視
点です。その視点から、最終的には「3〜4才」
を傷つけない、願望を叶える、という姿勢から、
今回の粘土怪獣の自己犠牲シーンは作られたよう
な感じを受けるのです。

今回のコメットさんの「親」修行、粘土怪獣の描
写。『コメットさん☆』という作品はその視聴対
象を「子供」と設定しておきながら、どうみても
その「親」向けとしか思えない描写が少なくあり
ません。(2002/09/01記)