アンチ「セカイ系」
・昨今の映画状況についての座談会[寺脇研、荒井晴彦、宮台真司]での宮台発言です
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=411
昨今の日本に特徴的なのは〈一行コメント化〉です。どんな作品が当るかをマーケティングリサーチすると「笑えた」「泣けた」「誰某が出てる」という一行コメントに乗るものだけ。欧米で一般的な、映画批評を読んで、メッセージ性を期待して観に来る観客は、いない。祝祭的な高度の興奮状態を求めて、のめりこむように映画を観る観客も、いない。寺脇さんの言うように、軽いコミュニケーションのネタになるかどうかで、動員が決まります。だから、アイドルを出演させ、スポットCMを大量に打てる、テレビ局が作った映画ばかりが当たる。一行コメント的なコミュニケーションのネタを提供できるからですね。
DVDを観まくってコピー&ペーストをするだけのものが増えています。すなわち、表現の内的必然性ゆえにこの手法が選びとられたと感じられない作品が増えているのです。別言すれば、専門学校出身者が多くなり、かつてのように学生運動あがりで観念的営みに淫したことのある東大・京大・早稲田のインテリが映画監督することも、なくなりました。
これも音楽が先行しました。「アーティストからDJへ」という変化が起こったのです。表現の内発性や主体性が評価されず、状況を観察して観客が求めるメニューをすばやく提供する敏感さが求められるようになることを言います。メッセージを発信することよりも、その場の人間を気持ちよくさせることが優先されるわけです。映画の世界でも「アーティストからDJへ」と似た変化が起こりました。
そういうタイプの映画が増えることに、僕は個人的価値観に基いて警鐘を鳴らして来ました。でも社会学者として言えば、抑鬱感の共有が難しくなった個人化された社会で、映画を含む全ての表現が「抑鬱感の代理表現としての価値」から「コミュニケーションツールとしての価値」にシフトするのは仕方ない。映画が商売である以上、そうした価値のシフトに棹さして儲けるしかない。すると、批判するにしても誰を批判すればいいのかです。
宮台 小説の世界では二〇〇〇年紀に入るころからライトノベルズとりわけセカイ系が隆盛です。ライトノベルズはかつてのジュヴナイルの等価物としての側面もあるけど、内容的には九六年に流行った『エヴァンゲリオン』の碇シンジのような主人公を描きます。自分が救済されるとなぜか世界の秩序も復元する。「自分の謎」と「世界の謎」が等置されるという内容です。ちなみにアニメ版の『ブレイブ・ストーリー』も『ゲド戦記』もそう。これをセカイ系と言います。不完全な主人公が自己承認に到ると、世界も秩序を回復する。
東浩紀さんが『論座』で面白いことを書いています。内的必然性と社会的必然性、吉本隆明でいえば自己表出と指示表出という二項図式で、表現を評価できる時代は終わったと。寺脇さんや荒井さんら旧世代の価値観では、「現実を生きるとはどういうことか」を表現者が再帰的に観察して観客に投げ返し、表現を観た観客が現実の手触りが違って感じられるようになるもの──それがいい表現です。「初期ロマン派」の芸術観に遡る考え方です。
ところが昨今のセカイ系では「映画を観たあと現実に戻る」という場合の「現実」は既に不分明です。男子はパソコン、女子はケータイ。生活時間の大半をそうしたパーソナルメディアに接触して過ごす若い人は、「米国の9・11以後の世界戦略の誤りが何をひき起こしたか」が現実と呼ばれるべき理由が分からない。それを倫理的に批判してもいいけど、倫理自体から説得性が消える現象だから有効じゃない。年長者は「自分が如何なる現実の上に生を得ているか分かっているか。表面的な人間関係ツールへと退却するにせよ、どんなシステムに支えられているのかを分かった上で人間関係ツールに淫しているか」と言いたくなるけど、若い人には、説教を可能にする視座自体が蜃気楼のようにリアルじゃない。
これは価値観というより現実観の対立で、事実上の世代間闘争になっています。それを踏まえて、(1)古い世代の現実観を楔のように打ち込んでいくべきか、(2)新しい世代の現実観に棹さしながら彼らのゲームの土俵上で方向付けをひんまげることを目指すべきか。両方の戦略があると思いますが、リスクヘッジ的には、両方やったほうがいいと思います。
宮台 僕は共産党的でなく社民的なやり方を推奨したい(笑)。僕の周りの人間も『松子』は映画じゃないと言ったし、僕の第一印象も同じです。でも中島監督が何をやりたいのかがよく分かりました。人畜無害な映画が横行する状況に抗っているんですね。人畜無害な映画とは、「離陸→混融→着地」という通過儀礼的な三段図式における「着地面」が観客の実存を脅かさない「観客肯定的作品」を言います。これに対し中島監督は、「人間万事塞翁が馬」「何がいいか悪いかは最後まで分からない」「混乱こそ我が墓碑銘」といったそれなりに観客を脅かす人畜有害な作品を作ってセカイ系に対抗しようとしています。
CGを使った怒濤的映像で思考の余地なく圧倒する映像は、確かに「映画的」じゃない。でもこうした戦略が許容されないと、人畜有害な作品が全て「隔離部屋」に追いやられます。「隔離部屋行き」にならないようにしつつ、状況に抗って如何にして人畜有害な映画を撮るかが課題の現在では、中島監督のような方法も許容されるべきです。「話題性を維持つつ人畜有害なメッセージを含む」だけでなく「原作小説を完全に組みかえつつ原作の世界観を移植する」という実験に成功しているなど、肯定的要素が多いです。こういう方向を追求するうちに、いずれは荒井さんが納得できる作品も出てくるんじゃないか(笑)。
宮台 その意味で『グエムル 漢江の怪物』が重要です。女の子がラストで死んじゃうので、日本では「約束事に反している、殺す必要はないじゃないか」と疑義が提示されます。でもこれは、ハッピーエンドを嫌う監督の作家性であると同時に、社会認識の反映でもあります。『グエムル』の重要な柱は「成長ものの否定」です。日本の「セカイ系」は「あれこれあって成長する」という話ばかり。「離陸→混融→着地」の通過儀礼における、離陸面が成長前、着地面が成長後です。その意味で『グエムル』はアンチ「セカイ系」です。
宮台 確かに『松子』はやっちゃいけないことの集積です。でも「幸せなことが幸せか」というモチーフを押し出す点はオーソドックスです。価値逆転によって賞揚される不幸が、『NANA』よりもずっと激烈である点は、若い観客にとって人畜有害ですがね。あと、やっちゃいけない手法だというけど、実はここ二十年ほどさんざんやられてきています。
昔、宮崎駿さんにインタビューして印象的だったことがあります。彼はエコロジストでも人間主義者でもないのです。じゃあエコロジカルでヒューマニティ溢れる『となりのトトロ』(88)や『天空の城ラピュタ』(86)は何なのか。結論的には「飛行視線が好きで、風を描きたい」というアニメーター的関心なのです。当時はCGが劣悪でしたから、過激な飛行視線を実写では描けなかったし、風という目に見えないものを実写で描くのも難しかった。飛行視線や風の顕在化にふさわしい要素をかき集めると、雲をぬい草をなびかせてグライディングする飛行物体や、風に葉がそよぐ木々や森が登場するわけです。「世界観」だと多くの人が思っているものは「演出的要求」からつむがれたものなのです。
宮崎作品は世界観や意味論にさしたる関心がないから、ラストが物語的に齟齬があったり理不尽だったりするのですが、アニメならではの「飛行視線」や「風の可視化」を用いた怒濤のように畳み掛ける手法でラップアップしてしまう。実はスティーブン・スピルバーグも同じような手法を使うんですね。かつての僕は肯定すべきか否定すべきか悩んだけど、今は肯定しています。ジブリを追い出された細田守が撮った『時をかける少女』はとてつもない傑作ですが、宮崎的なものを正しく継承しているので、『松子』系と言ってもいいような「怒涛のような巻き込み映像」を使います。しかも宮崎アニメをはるかに陵ぐしっかりした世界観がある。だったらますます肯定するしかありません。『松子』と同じです。
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