誤読から始まるコミュニケーション

http://ekken.blog1.fc2.com/blog-entry-58.html
よく見かける、ブログ上で、ブログ論を語る、というのは、良いけれど、ちょっと不毛かなー、と思うのでちょっと焦点を絞って書いてみる。
アニメについて何かを書くこと、そこに関して言えば、自分ははっきりと「批評」や「分析」なんてスタンスは取ってはいない。まあ、「感想」とひとくくりにしてもいいんだけど(「印象批評」なんてカッコつけた言い方もあるが)、それだと漠然としすぎてるから(だからこそ自由な書き方、内容、いろんな可能性がありうるわけだが)あえて具体的に言うと、作品をもとに、「妄想」を膨らませるようにしている。上に取り上げた記事に沿って言えば、あえて「誤読」するようにしている。で、その「誤読」が、作品と同等、あるいはそれ以上に素敵なものになったら(と思われたら)いいな、とも思う。ただ、自分の「誤読能力」には限界があるだろうから、

あえて誤読されたまま、相手のコメント・トラックバックに乗っかる、という手もあります。話の流れ的に、その解釈が面白くて話題の発展性を感じられたのなら、誤読から始まるコミュニケーションは、有益なものになるかもしれません。

他人のさまざまな「誤読」をもとに、もっと発展させていけたら、もっと素敵なことになるだろうと思う。他人とのコミュニケーションでそういうことが出来る、というのが、自分にとってのオープンな「ブログ」の理想的な形だと思っている。
こういったことを、mixiのような閉鎖的なSNSに書かず、あえて「オープン」な「ブログ」に書く、という意味も考えて見てください。

  • 僕の考えるブログ文章術 第5回:誤読は止められない

http://d.hatena.ne.jp/mhk/20060309/p1
最近、久しく停滞していた「表サイト」を怒濤のごとく更新し始めたスズキトモユさんもおそらくそうだと思いますが、

人は文章の中に、自分に都合のいいものを見つけ、都合のいい部分だけに反応します。
きちんと書けばきちんと読んでもらえる、というのは幻想にすぎません。いくら文章を研鑽したところで、あなたの書きたいことは完全には読者に伝わらないのです。よりよい文章を書けば……、先人の文章に学べば……に代表される向上心はたいへん結構なことだと感じますが、そのことで事態が解決すると考えているならば、それははっきり驕りだと思います。
「自分が書いてることは誰にも伝わらない」
そんな諦念を前提とした上で更新するほうが、闇雲な向上心を掲げて更新するよりも有効なのでは、と僕は考えます。

そうであったとしても、やはり、あえて「オープンな広がり」、その可能性に理想を求めたい自分がいます。