リアルに共感出来るような前提とその落とし前

まだ4月前なので早いような気がしますが、現時点で思いついたことを今回語ってみようかと。
例によって漠然とした思いつきなので、そのへんはご了承ください。

きっかけは、「ブラック★ロックシューター」を観終わって思いついたことで、前の記事で書いた「ギルティクラウン」はまだ序盤しか観ていないのではっきりとは言えませんが、要は、今の(建前上の若い)視聴者の気を惹きやすい、リアルなテーマ、主人公がヘタレだったり、友達ができない云々だったり、「ブラック★ロックシューター」もそうですが、あれも人間関係のこじれの話でもあるし、総じて、いわゆる「コミュ障」の話なんですね。あ、そういや、「妖狐×僕SS」もそんな話でしたか。

そういった、ネットでも話題になってそうな問題は視聴者が食いつきやすい前提となる設定なわけですが、ただ、つかみとしては良くても、その前提をどう解消して、完全ではないけれど、落とし前をつけるのか。個人的な印象では、どれもとりあえずラストにそれなりにまとめてはいるけれど、まあ、最低限オチはついたか、という作品がいくつか目立つように思えます。

オチはついてはいるけれど、理詰めでまとめたという印象ですね。しかも、前提で設定したテーマはクリアしていない。

何故かというと、そもそも「コミュ障」と一緒くたにあえてしますが、「コミュ障」の主人公は動かないので主人公のくせに、物語の駆動力になってくれません。旧劇エヴァのシンジ君が典型的だと思いますが、まわりのキャラから無理矢理動かされてはいるものの、成長したのかもどうかも分からないし、成長のカタルシスもない。それでは納得できるラストが期待できるはずがありません。

そうすると、逆に主人公があまり悩まずに動いてくれると、ドラマの駆動力にそのままなって話がどんどん進みます。今のところでは「モーレツ宇宙海賊」の主人公がそうでしょうか。

だからリアルな問題を余程のことがない限りフィクションで解決することは、昔から正直言って不可能なこともあり(昔よりも遙かに困難になっているような気がするし)、とすれば、フィクションを、ただ癒やしの目的に特化することも、ただのエンターテインメントに特化させるのもありだし、リアルな問題を扱うことよりも単純に楽しめて、商売も成功する確率が高くなるような気がします。

ただ、そのことには否定しませんし、人それぞれの好みの問題だから構わないんですが、話を戻すと、つかみとして安易に?リアルな問題を提示しつつもドラマの過程で上手く処理出来なくて、最後の締め方で結局共感出来なかった、という事例が多々あり、じゃあ、それは最初のつかみだけだったんかい、と文句の一つも言いたくなります。

では、フィクションで、リアルな問題を最初に掲げて、ラストの落としどころをどうするのか。

これは、あくまで個人的な考えですが、複雑なリアルな問題を扱うとしてもそのまま扱うとなると、答えもリアルなものを出さなければ納得されないだろうから(東のエデン)、複雑なリアルな問題を、いったんフィクションの設定に出来るだけ還元して、還元されたフィクションの設定内で解決させるのが一つ。もう一つは解決する過程で、複雑な問題が、単純化(かつ当たり前で深い)されていくカタルシスを伴う物とする。とすると、いくらフィクションに還元されたリアルな問題でも、完全解決、誰もが納得出来るような結論は出ないかもしれないが、カタルシスを伴えば、現実の問題の答えは出してはくれなかったけれど、一瞬、ちょっとだけ、視聴者の気持ちのもやもやが晴れたような効果はあり得るんではないかと思うのです(ピングドラム)。

これが甘い考え方かもしれないのは承知の上ですが、現実に対して、フィクションが今できることはそうあって欲しい、というあくまで個人的な希望です。

さらにただし、最近は「イヤミス」(http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20120223-00000301-webhon-ent)というのが流行っているらしく、あまり詳しくないのですが、やはり現時点では(と今の段階では言っておきますが)、ネガティヴな共感性、しかも共感だけで完結しているらしいようで、それもやむを得ないかなと思うんですが。そういえば全然観てない水島努監督の「Another アナザー」もこの部類に入るんでしょうか。


というわけでまた長くなりまして、まだ書きたいことはありますが、いったんここで切ります。
次回は今のフィクションのリアリティの水準が混乱している問題について書ければいいと思っています。

では、また。