第29話『カスタネット星国の嵐』

今回はケースケがライフガードを目指す理由と、
メテオさんのお母さんが登場することによって彼
女の資質が、例によって畳み込むような中村憲由
さんの演出を通して分かる回です。

このほとんど勢いだけで押しまくる中村演出には
賛否両論ありそうですが、あらためて見直してみ
て、ドラマ構造に則ってというよりは、サブタイ
にあるように、各要素をまるごと「嵐」のように
描く、という意味で中村演出には最適だろうと感
じました。

そもそもドラマ構造がきちんとあるエピソードは
コメットさん☆』には少ないです。
オーソドックスなドラマ構造によるカタルシス
いうのもその効果を考えれば決して無視出来ない
ものなのですが、『コメットさん☆』の魅力が、
作劇上の整合性にはなく、前にも書いたような
「言葉」の連想、ほとんど「言葉遊び」の繋がり
で書かれたような脚本などにあるからこそ、「新
鮮」な印象を受けたことは間違いありません。

逆にエピソードの大半がそうだったからこそ、
「作品」として弱くなってしまったことはあるだ
ろうと思います。つまり印象に残った「シーン」
は思い浮かべても、印象に残った「お話」という
のが少ないのです。それは部分「描写」が素晴ら
しいということです。

例えば実写志向のカメラワーク、「間」をきちん
と意識したカット構成による「映像」そのものの
素晴らしさ、それにおけや氏の「言葉遊び」的な
「描写」の繋がりが加わって、強く印象に残る
「断片」はあっても太い幹のようなドラマ構造で
観客の心をつかむようなところはありません。

今回の例で言えば、メテオさんとお母さんのやり
取りの「断片描写」からメテオさんが過去にどう
いう教育を受けたのか、というのは観客が想像す
るしかありません。

この観客に想像させる部分があった方がいいのか、
悪いのかというのはなかなか難しい問題で、確か
に想像させる「断片」(ヒント)が多い方が観客
は楽しめます。それは「絵本」の読み方と同じで
受け手が作品に参加して楽しむということです。
コメットさん☆』にどこかそうした「絵本」的
な構造があり、いわゆる王道なドラマ構造とは違
うのではないかということはおけや氏が童話を書
こうと思っていたという発言からわかります。
そして「絵本」(「童話」、「民話」の類いでも
いいです)の場合、ドラマ構造がはっきりしすぎ
ていると逆に読者の想像力の余地を失わせるとい
う結果になります。

この「かいせき」で私は、メテオさんがこの強烈
なお母さんに強制的に「女王的メンタリティ」を
刷り込まれ、本来の彼女の「素直さ」は抑圧され
てしまったのではないか、と解釈しました。お母
さんの言う「合理的」思考、本物の王子が見つか
らなければ、ケースケを「保険」にすれば良い、
といった「大人」な考え方はどことなく最初から
「大人」であるようなメテオさんの「印象」に通
じます。

これは本編にそのような「描写」があったわけで
はなく、あくまで私の「解釈」です。
メテオさんが本当にそうなのかは関係ないし、神
戸さん、おけやさんに聞いて、答えあわせをする
ようなことでもありません。
肝心なのはそういう「楽しみ」方が出来る、そう
いう構造に『コメットさん☆』という作品はなっ
ている、ということです。

王道のドラマ構造によるカタルシスと、観客が作
品に参加して解釈して楽しむのとどちらが良いの
かというのは愚問です。答えは出ません。
ただ前者の方が万人受けすることは間違いないで
す。実際、そういう作り方でなければ失敗作だと
いう意見も多いです。
後者の場合だと観客の想像力が試されるからです。
人を選ぶからです。

この前者の作り方の『コメットさん☆』というの
も観たかったというのはあります。
しかしそれは果して『コメットさん☆』なのか、
というのはパート2などで実際に作ってみなけれ
ばわかりません。(2002/08/25記)