今考えてること。

mixiにしては結構長い文章を書いたのでこっちにも転載しとこうか。
ちなみに反論あるならはてブ等で勝手にやってくれ。どうせ見ないけど。
俺は結局「悪役」であることを引き受けるしかないんだな、と思ってるから。

もうね、年取ったし、若い時のようなキレの良さを取り戻せないのが口惜しいんだけど。

だから、テーマは思いつくんだけど、それを具体的に論として展開できないのがさらに口惜しい。

とりあえず一応思いつくままに挙げてみましょうか。

1.いま、「子供向け」とは何なのか。

2.本当は怖いターンAガンダム。そしてターンエーの「癒し」の真意とはなにか。さらに作家がその才能を「命」と引き換えに差し出すということが作家によってはままあり、そして読者は似非評論家たちはそのことに対して無自覚で、果たしてそれは罪なのかどうかという件。

3.クリエイターとして尊敬すること、大人として尊敬する、ということに関して、宮崎駿の場合、クリエイターとして尊敬する、というただ一点しかなく、「人間として」はまったく尊敬出来ない件。

4.また駿繋がり。駿がことごとく若い才能を潰し、それだけではなく、例えば鬼ババが若い女の生き血を吸って生き延びてるがごとく、若い才能の生き血を吸って来た経緯。しかもそのことに対して当の駿は自覚しているという、タチの悪さについて。

5.また駿の話になってしまった(笑)。しつこい。それはそれとして、高畑勲が死んだら手塚の時みたいに高畑批判を開始する用意はすでにある、と本人がすでに公言している件。

6.駿から離れましょう。ガイナがいつも主人公の動機付け段階でグルグル回るのは、すでに王立宇宙軍のときからあったのではないかという件。

7.だから「トップをねらえ!」あたりや「ナディア」あたりは庵野は物語の定型範囲内で止まったから、むしろガイナ作品としては実は珍しい作品ではないかという件。

8.コメットさん☆で前半、御伽噺が出来たのは、ぶっちゃけて言うと、藤吉家が何のことはない、経済的に恵まれていたからだ、という件。金持ちだったから御伽噺が出来たという点。そこが過去の1代目、2代目のコメットさんと一番違う点。

9.神戸守は演出家としては優れているが、残念ながら「アニメ作家」ではないという件。だからいい脚本でないとその力を発揮できないという件。

10.アニメを進化論的に技術の進歩として捉えるのはもう終わったのではないか、という件。ニコ動の影響もあり、すべてがフラットになりつつあり(あるいはカオスの様相を呈しており)、必ずしもアニメを見るときに、かってのアニメの歴史などの知識を持たなくてもいい時代に入っており(そのことを批判するのは無意味であり)、アニメライター、評論家連中はそんな現状に対して見事に無力でしかなく、評論家が過去あるいは今の作品でもいいが、それがいかに価値のある作品であることを「語る」より、もう手っ取り早く直接映像そのものを見せてしまって、その上でそれを見た人間がその後オタクになるか、ならないかは自由である、という件。ニコ動は、既成のネット配信とは違い、「ニコ動」自体が盛り上がっていて人がどんどん集まるので、偶然まったく知らなかったアニメをたまたま見ることができるという点では、かつてのテレビメディアでの、大量の旧作アニメ再放送黄金期と状況が似ているのではないか、という件。

11.作り手としてのオタクが作る最近のアニメが、どんどん、ただの一応「プロ」の作るある意味MADでしかないように思える件。


他にもいろいろ思うことがあったような気がするが、とりあえずこんなもんかな。