第15話『カゲビトの挑戦』

■おけや脚本の書き方
 言葉の連想による「ドミノ倒し」


おけやあきら氏の脚本の特徴として、1つの言葉
に2つ(場合によってはそれ以上)の意味を持た
せる、いわゆる「ダブルミーニング」があると、
以前書きました。
今回はそれが顕著というか、ほとんど言葉の連想
をつなげるだけで書かれているといってもいいで
す。

テーマとなるキーワードから連想した言葉(要素)
をドラマの起伏をつけてつなげるのではなく、そ
のまま、「ドミノ倒し」のようにつなげるので、
ただの「思いつき」をつなげているようにも見え、
評価に大変迷います。

冒頭からして、
景太朗パパの「牧場の夢」→「ウシビト」
からして、連想だけです。本当にそれだけです。

そして本編。
なかなか王子様探しをしないコメットさんに業を
煮やしたヒゲノシタより遣わされた「カゲビト」。
彼とコメットさんとの、ズレまくった漫才のよう
なやり取り。その楽しいやり取りに「輝き」を失
ったイマシュンが絡みます。

流れとしては以下のようになります。


「輝き」を失ったイマシュンの影に入るカゲビト。
イマシュンの素性には謎が多い(過去の記憶が欠
落)と断定。
 ↓
「メモリーストーン」を落とした王子は「記憶」
を失っている?
 ↓
イマシュンが王子様?
 ↓
カゲビトの問い、
『君はいったい何をしに来たのかな?』
イマシュンにとってはこれが違う意味になる。
イマシュンはやりたくない(不本意な)仕事をや
らされて、「初心」を忘れてる、「輝き」を失っ
ている。
 ↓
「記憶」がない→「初心」を忘れるに
意味がスライドする。
 ↓
コメットさんがイマシュンに「メモリーストーン」
を渡す。
『あなたの「記憶」、返しにきたの』
『思い出して、無くしてしまった本当の自分を』
 ↓
「本当の自分」
 ↓
「初心」
 ↓
イマシュン、「初心」を取り戻す。


この書き方がただの思いつきでやってるのか、確
信犯なのか。

このとぼけた感じは、まじめにドラマをかまえて
観ようとすると、まさに劇中でのカゲビトのよう
に、肩透かしをくらう、コメットさんの性格その
もので、作品の雰囲気を良い意味で補完している
ところもあり、一概に否定はできません。

ただ、イマシュンの描写としては、いくら彼があ
あいう「天然」な性格だとしても、不十分と言わ
ざるを得ません。
「天然」でありながら、中途半端に「悩む」、と
いう描写があるからです。

(それはコメットさんにおいてさえ同じなのです
が、主人公である彼女は「矛盾した存在」として、
作品自体を象徴しているから良いとして)

そのため、ケースケよりも描き方が「雑」に見え
てしまうのです。イマシュンがいまいち好きにな
れない、心理がわからないという人が少なからず
いるのはそのためだと思われます。

たぶん、この書き方はただの「思いつき」ではな
いでしょう。脚本のおけやあきら氏が以前アニメ
ージュのインタビューで、「子供向けの童話を書
きたいと思っていた」と述べていますから、「試
行錯誤の結果」でしょう。

つまりは、童話的、絵本的な、作品の雰囲気を決
定づける「語り口」、作品の「色」のようなもの
を重視する書き方です。
それが同じ方法論の『ぶぶチャチャ』ではあまり
「綻び」が見られないのは何故なのか。

その原因ははやり、前にも書いたかもしれません
が「3〜4歳」と「12〜3歳」のドラマ、この
2つを両立させなければならない、という難しさ
にあるのでしょう。
ぶぶチャチャ』はいわば、「3〜4歳」のみだ
からです。

この2つの間で揺れてるために、(もちろん作品
総体としてはレベルは高いのですが)演出的な部
分は別として、脚本部分での出来不出来の落差と
して現われている。

より具体的には、
「3〜4歳」向けの絵本的な「語り口」が「12
〜3歳」向けの作劇とバッティングすることがあ
る、という傾向です。(2002/06/02記)