寄る辺なき透明な存在の叫び――『機動戦士ガンダムSEED』の開いた地平

http://d.hatena.ne.jp/ashizu/20061017#1161083125
エウレカセブン』と『ガンダムSEED』との比較から論旨を発展させた考察。なかなか興味深い。

ガンダムSEED』においても、登場人物たちの悩みや葛藤というものを見出すことができる。しかし、そうした悩みや葛藤は、「なぜ分かってくれないんだ!」という絶叫に近いものだと言える。さらに言えば、それは、「なぜ自分の立場を承認しないのか?」、「なぜ自分と同じ側に立とうとしないのか?」という叫びに近いものである。こうしたところに、『ガンダムSEED』のセカイ系的なところがあるわけだが、この閉鎖性、この世界の小ささこそが、注目に値するものだと僕は思うわけである。


 『エウレカセブン』は、確かに、非常に味わい深い作品だと言えるし、アニメーションのクオリティも非常に高い。しかし、やはり、ちょっとした素朴な疑問を提示せざるをえない。いったい、どこに、旅をする場所などあるのだろうか? いったい、どこに、耳を傾けるべき意見を言う人がいるのだろうか? 旅をして、自分を見つめなおし、昨日までの自分とは違う新しい自分になること。そうしたことを夢見る人はたくさんいることだろう。しかし、そのようなことを思っている人が常に迷い続けているのが現代という時代なのではないのか? そもそも、最初に否定すべき自己などというものが希薄なのである。それゆえ、そこで求められているものは、確固としたアイデンティティであり、それを旅によって獲得することなどほとんど不可能に近いだろう(イラクで殺された香田証生さんのことをやはり思い出すべきだろう)。レントンには、そこから逃れたいものがたくさんあったが(レントンの父は英雄である)、果たしてどれくらいの人が、そのようなものを持っているだろうか?


 こんなふうに考えると、僕は、『ガンダムSEED』の提示している世界の狭さが現代という時代に非常にしっくりくると思うのである。そこにおいて射程に入っているのは自分だけであり、自分だけしか問題にはならない。なぜ、これほどまでに自分というものが問題になるのか? それは、自分というものがそれほどまでに希薄だからであろう。自己規定がしっかりしていれば、それほど自分というものにこだわる必要もないだろう。ここでの問いとは、あの月並みな問い「自分とは誰か?」であり、そこで充満しているものとは自己像の影なのである。

「SEED」もそろそろ時間が経ってきて、冷静に考えてみる必要があるということか。その方向性は「コードギアス」に引き継がれているということなのか。まあ、両方とも竹田Pが絡んでいるからなのだが、安易に「SEED」を過去のガンダムシリーズと比較して否定するのはとりあえず保留にした方がいいのかもしれない。